1981年01月01日

解説

家族の情景は、どんなに自然にみえても画家が画面の上で構成
したものであり、部分的なスケッチは重ねていたであろうが、
全員がこちらを向き、あるいはグループの一人か二人がこちらを
見るポーズも、現実にあったことではなく、他ならぬ画家自身
が絵の中でつくりだしたことなのである。
多木浩二『欲望の修辞学』


イギリスで流行した『家族の肖像』は、現代のファミリー・
ポートレイトの原型と言えます。
その分析を通して、線遠近法的な視覚の在り方、
ひいては単一視点的な知の在り方を考え直してみました。

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posted by カズキ at 19:15| 『家族の肖像』 表象論

1 中に集う

17・18世紀、イギリスで流行した絵画「家族の肖像
(Conversation Pieces)」は、今日の家族写真の原型である。
それは記録であって、表現ではない。
何らかのヴィジョンや思想をしめす芸術作品ではなく、
共に暮らした人々の思い出である。
そのため、ユニークな技術はほとんど必要とされず、
美術史の潮流からも見事に外されてきた。
必然、まとまった資料やインスパイアされた作品も多くはない。
碩学の人マリオ・プラーツの大著と、そのプラーツ本人の書斎で
撮影されたルキノ・ヴィスコンティ監督の同名映画がなければ、
このジャンルへの関心はさらに低いままだっただろう。
とはいえ、意図しないところにも、知的な興奮は生まれる。
「家族の肖像」が興味深いのは、写真の登場以前に、
カメラを前提としたかのように人々が振る舞ったこと。
技術革新によって生みだされるはずの行動が、
発明を先取りする形で展開された不思議である。
ピンホール・カメラの原理はギリシャ時代にすでに
見い出されていたとも言われる。
しかし、レンズと感光材によるカメラは、19世紀初頭の
ダゲールによる発明を待たなければならない。
つまり「家族の肖像」は、カメラの登場以前に、
その結果をシミュレートしていたのである。

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「カメラ」の語源は「カメラ・オブスキュラ(暗い部屋)」
だと言われる。
畢竟、それは「家屋」という空間のメタファーなのかも知れない。
屋根は雨をしのぎ、夜露をさえぎる。
あるいは太陽の陽射しから肌を(紫外線から遺伝子を)守る
ものとして屋根はある。
屋根の下には影が生まれ、家族はその穏やかな闇の中に
つつまれて暮らす。
故に、家族写真の撮影は、そうした構造をなぞる儀式のようにも
思える。
「暗い部屋」であるところのカメラ・オブスキュラは、
その内壁に外界の反転像を映し出した。
カメラを家屋とみなせば、その中に家族が集うのも道理なのだ。
外から見れば、カメラのレンズは暗闇への入口である。
一方、カメラの内部においては人工の太陽となる。
レンズは、表と裏で180度振る舞いを変える、
宮廷道化師を想起させる。
だからこそ、人々は彼に向かって笑うのだろうか? 
撮影される者の体は光の束となり、レンズをめがけて
流れ込んでいく。
互いの距離を極限にまで縮めるその現象こそ、
彼らを共同体として自覚させるダイナミクスに他ならない。
「孤独は災いなるかな。堕ちれども助くる者なし」。

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posted by カズキ at 21:16| 『家族の肖像』 表象論

1981年01月02日

2 外を伺う

「家族の肖像」は写真文化を先取りしたが、
そこでカメラの役割を果たしたのは画家だった。
彼らの目がレンズであり、彼らの腕はファインダーの
役割を果たした。
しかし、言うまでもなく画家は生身の人間である。
その目は一瞬ですべてを捕らえるわけではないし、
筆の動きとて光速からはほど遠い。
フィルムの感光に比べれば絵画の制作は
あまりにも緩やかだ。
カメラの出現によって、彼らは相対的な遅延者へと
貶められたのである。
光速で進む物体内で時間が間延びするように、
光学システムの中で画家は失速し、
不当な疑問を呼び起こしてしまった。
瞬間を作るために、一体どれほどの時間を費やすのか、と。
画家は群像を一度に描くことができない。
カメラがまったく同時に複数の人間を捕らえるのに対して、
画家の筆は単位を刻む。
ある程度平行で進めるにしても、同時(同じ瞬間)では
ないのだ。
「大衆」というゲシュタルト概念は、全体を一気に捕らえる
カメラによって、補完されたのではないだろうか。
かたや群像絵画は、一人一人をタイムテーブルに配して、
常にアッサンブラージュとして制作される。
同じように見える写真と絵画があっても、
工程の違いは果てしない。

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集合写真を撮る場合、人々はカメラのレンズを見つめる。
画面のこちら側を見返す視線は、記録者の存在を認める
「ノンフィクションの視線」である。
一方、映画などの出演者はカメラのレンズを見返えさない。
俳優が部屋に一人でいる場合、文字通り彼は一人であり、
スタッフの存在は綺麗に消されてしまう。
あるはずのものを認めない視線、
それが「フィクションの視線」である。
特別な意図がない限り、それら二種類の視線が
混在されることはない。
意味の違いによって、互いの世界を
切り崩してしまうからだ。
見返さない視線に見返す視線がまじっていると、
彼(女)は画面内の関係性を袖にして、
メタ・レベルの鑑賞者と姦通している印象を与えてしまう。
逆に、見返す視線の中にある見返さない視線は、
記録行為自体をフィクショナルなものとして
冷笑しているかに見える。
実は、「家族の肖像」にはこの視線の混在が
頻出するのである。
瞬間を捕らえるカメラではなく、瞬間を作り出す
画家によって描かれたためだろう。
視点に対する意識が往々にして寄せ集め的になっている。
各人が別々のことを考え始めた時代、
個人主義の誕生を視線の分裂が密やかに傍証する。

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posted by カズキ at 21:29| 『家族の肖像』 表象論

1981年01月03日

3 中を覗く

それでもなお、フレームが家族をささえる。
家族を囲む壁。
つまり「家族の肖像」では、絵画のフレームが
家屋の壁と同義なのである。
茫漠とした世界の中で位置を定め、そこに集う人々の関係性を
保証するものとして、フレームは静かに機能する。
たとえ個々の想いは違っても、同じ空間を共有することの
意義は大きい。
15世紀から17世紀にかけて、
イギリスでは第1次エンクロージャー(囲い込み運動)が起こる。
その結果としての富の蓄積であり、それを記念しての
「家族の肖像」である。
フレームの機能は、のっけから分断と集積に
骨がらみだったのだ。
このジャンルの代表的画家ジョアン・ゾファニーの作品が、
そのあたりの精神性を証明してくれる。
所有物を絵画化して二重に所有する悪癖である。
絵画のフレームは、窓にたとえられることも多い。
その場合には、鑑賞者が内部に位置して、
外の世界を切り取るケースがほとんどである。
世界に対して開かれた窓という意味で。
しかし、「家族の肖像」では絵画空間が内部にあたる。
鑑賞者が外にいて、家屋の中をのぞき見る形である。
故に、それらは「人形の家」を想わせるし、
マルセル・デュシャンの「遺作」を思い出させる。

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レンズとフィルム。
目とキャンバス。
あるいはのぞき穴と密室。
いかなるコンビネーションにおいても、
リニア・パースペクティブ(単一焦点遠近法)が浮かび上がる。
それらはすべて、視点と枠組がかなでる、
点と面の変奏曲である。
人間は本来五感を使って世界に向き合っているはずなのに、
ルネサンスこのかた極端に視覚を偏重する文化が育った。
デュシャンはその風潮を網膜的と呼び、
様々な手法で茶化してみせた。
「遺作」とは、そうしたヴィジュアル・カルチャー全体に対する、
手のこんだパロディだと言える。
デュシャンの末裔たちは、その逸脱を拡大してきた。
しかし、世の趨勢は、視覚偏重に歯止めなどかけようとは
していない。
モダニズムはアメーバのように形を変えて生き延び、
単一焦点文化はますます隆盛を極めている。
果たしてカメラや映画のない生活が想像できるだろうか? 
リニア・パースペクティブは、もはやわれわれの
インフラストラクチャーである。
そのポリティクスは生活の隅々に行きわたり、
思考の筋道、あるいは発想の枠組として機能している。
光の集束を血脈の流れと捕らえ、それを受け止める媒体を
家屋とみなせば、リニア・パースペクティブは
家族形成の隠喩にさえなるだろう。

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posted by カズキ at 21:33| 『家族の肖像』 表象論

1981年01月04日

4 外に遊ぶ

家屋という物理的空間がフレームという視覚的記号に
投影されるのであれば、そこからさらに言語へ向かって
影が伸びても不思議はない。
いや、その展開は倒錯的レトリックである。
少なくとも、空間と視覚と言語の三位一体が
想起されるべきなのだ。
外界から家族を分かつものとして家屋があるならば、
その断片には自ずと独立した名称が与えられるだろう。
ファミリネーム、姓、苗字…。
さらには、各自の部屋がファーストネームに照応していく。
個室がない場合にも、眠る場所、座る場所、お気に入りの
場所に関する記憶が、名前の拠りどころとなる。
記憶術、シニフィアンとシニフィエ。
言葉を成立させる差異化のシステムは、
そのまま空間の分割に合致する。
一方、血脈は意味の連鎖に重なる。
親の名前から字をゆずり受ける場合にはもっとも顕著だが、
そうでない場合にも、目に見えない法則が親から子に受け継がれる。
意味の連鎖は集団に固有であり、言霊への畏怖の念や
特定の文字に対する価値観は、閉じた空間の中で醸成される
家族の美酒と言える。
誰かがその封印を解くまで、つまり新しい成員によって
覚醒がもたらされるまで、暗き信念は静かに眠り続ける。

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配偶者は家族にとって、福音であり、同時にねじれである。
破綻をきたさない限りにおいて、夫婦の振幅が大きいほど
家族の展開の可能性は広がる。
錬金術は、婚姻の隠喩でもある。
異なる要素の出会い。
遺伝子にせよ、血液型にせよ、家族の問題は
常にアルス・コンビナトーリア(組み合わせ術)を思わせる。
今では、一人の人間の中にも組み合わせが生まれるようになった。
強固な城壁に守られた人格はなくなり、複数のペルソナが顔を出す。
そも、居場所がひとつではなくなったのだから、
人格が多重化するのは必然である。
ジキルとハイドとまでいかなくても、
時間と空間の違いによって人はその顔を変える。
その多重化する空間こそ「家族の肖像」の外界であり、
鑑賞者が属する現実の世界である。
そこには、エンクロージャーによって場所を奪われ、
都市を目指した人々がいる。
ゲニウス・ロキ(地霊)を失い、フラヌールとなった近代人。
われわれはその末裔であり、けして「家族の肖像」の虜員ではない。
一抹の侘しさと大いなる安堵をもって、その生を喜びたい。

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…END
posted by カズキ at 21:41| 『家族の肖像』 表象論