1981年01月04日

4 外に遊ぶ

家屋という物理的空間がフレームという視覚的記号に
投影されるのであれば、そこからさらに言語へ向かって
影が伸びても不思議はない。
いや、その展開は倒錯的レトリックである。
少なくとも、空間と視覚と言語の三位一体が
想起されるべきなのだ。
外界から家族を分かつものとして家屋があるならば、
その断片には自ずと独立した名称が与えられるだろう。
ファミリネーム、姓、苗字…。
さらには、各自の部屋がファーストネームに照応していく。
個室がない場合にも、眠る場所、座る場所、お気に入りの
場所に関する記憶が、名前の拠りどころとなる。
記憶術、シニフィアンとシニフィエ。
言葉を成立させる差異化のシステムは、
そのまま空間の分割に合致する。
一方、血脈は意味の連鎖に重なる。
親の名前から字をゆずり受ける場合にはもっとも顕著だが、
そうでない場合にも、目に見えない法則が親から子に受け継がれる。
意味の連鎖は集団に固有であり、言霊への畏怖の念や
特定の文字に対する価値観は、閉じた空間の中で醸成される
家族の美酒と言える。
誰かがその封印を解くまで、つまり新しい成員によって
覚醒がもたらされるまで、暗き信念は静かに眠り続ける。

家族-0401


配偶者は家族にとって、福音であり、同時にねじれである。
破綻をきたさない限りにおいて、夫婦の振幅が大きいほど
家族の展開の可能性は広がる。
錬金術は、婚姻の隠喩でもある。
異なる要素の出会い。
遺伝子にせよ、血液型にせよ、家族の問題は
常にアルス・コンビナトーリア(組み合わせ術)を思わせる。
今では、一人の人間の中にも組み合わせが生まれるようになった。
強固な城壁に守られた人格はなくなり、複数のペルソナが顔を出す。
そも、居場所がひとつではなくなったのだから、
人格が多重化するのは必然である。
ジキルとハイドとまでいかなくても、
時間と空間の違いによって人はその顔を変える。
その多重化する空間こそ「家族の肖像」の外界であり、
鑑賞者が属する現実の世界である。
そこには、エンクロージャーによって場所を奪われ、
都市を目指した人々がいる。
ゲニウス・ロキ(地霊)を失い、フラヌールとなった近代人。
われわれはその末裔であり、けして「家族の肖像」の虜員ではない。
一抹の侘しさと大いなる安堵をもって、その生を喜びたい。

家族-0402


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posted by カズキ at 21:41| 『家族の肖像』 表象論