投影されるのであれば、そこからさらに言語へ向かって
影が伸びても不思議はない。
いや、その展開は倒錯的レトリックである。
少なくとも、空間と視覚と言語の三位一体が
想起されるべきなのだ。
外界から家族を分かつものとして家屋があるならば、
その断片には自ずと独立した名称が与えられるだろう。
ファミリネーム、姓、苗字…。
さらには、各自の部屋がファーストネームに照応していく。
個室がない場合にも、眠る場所、座る場所、お気に入りの
場所に関する記憶が、名前の拠りどころとなる。
記憶術、シニフィアンとシニフィエ。
言葉を成立させる差異化のシステムは、
そのまま空間の分割に合致する。
一方、血脈は意味の連鎖に重なる。
親の名前から字をゆずり受ける場合にはもっとも顕著だが、
そうでない場合にも、目に見えない法則が親から子に受け継がれる。
意味の連鎖は集団に固有であり、言霊への畏怖の念や
特定の文字に対する価値観は、閉じた空間の中で醸成される
家族の美酒と言える。
誰かがその封印を解くまで、つまり新しい成員によって
覚醒がもたらされるまで、暗き信念は静かに眠り続ける。

配偶者は家族にとって、福音であり、同時にねじれである。
破綻をきたさない限りにおいて、夫婦の振幅が大きいほど
家族の展開の可能性は広がる。
錬金術は、婚姻の隠喩でもある。
異なる要素の出会い。
遺伝子にせよ、血液型にせよ、家族の問題は
常にアルス・コンビナトーリア(組み合わせ術)を思わせる。
今では、一人の人間の中にも組み合わせが生まれるようになった。
強固な城壁に守られた人格はなくなり、複数のペルソナが顔を出す。
そも、居場所がひとつではなくなったのだから、
人格が多重化するのは必然である。
ジキルとハイドとまでいかなくても、
時間と空間の違いによって人はその顔を変える。
その多重化する空間こそ「家族の肖像」の外界であり、
鑑賞者が属する現実の世界である。
そこには、エンクロージャーによって場所を奪われ、
都市を目指した人々がいる。
ゲニウス・ロキ(地霊)を失い、フラヌールとなった近代人。
われわれはその末裔であり、けして「家族の肖像」の虜員ではない。
一抹の侘しさと大いなる安堵をもって、その生を喜びたい。

…END