1981年01月02日

2 外を伺う

「家族の肖像」は写真文化を先取りしたが、
そこでカメラの役割を果たしたのは画家だった。
彼らの目がレンズであり、彼らの腕はファインダーの
役割を果たした。
しかし、言うまでもなく画家は生身の人間である。
その目は一瞬ですべてを捕らえるわけではないし、
筆の動きとて光速からはほど遠い。
フィルムの感光に比べれば絵画の制作は
あまりにも緩やかだ。
カメラの出現によって、彼らは相対的な遅延者へと
貶められたのである。
光速で進む物体内で時間が間延びするように、
光学システムの中で画家は失速し、
不当な疑問を呼び起こしてしまった。
瞬間を作るために、一体どれほどの時間を費やすのか、と。
画家は群像を一度に描くことができない。
カメラがまったく同時に複数の人間を捕らえるのに対して、
画家の筆は単位を刻む。
ある程度平行で進めるにしても、同時(同じ瞬間)では
ないのだ。
「大衆」というゲシュタルト概念は、全体を一気に捕らえる
カメラによって、補完されたのではないだろうか。
かたや群像絵画は、一人一人をタイムテーブルに配して、
常にアッサンブラージュとして制作される。
同じように見える写真と絵画があっても、
工程の違いは果てしない。

家族-0201


集合写真を撮る場合、人々はカメラのレンズを見つめる。
画面のこちら側を見返す視線は、記録者の存在を認める
「ノンフィクションの視線」である。
一方、映画などの出演者はカメラのレンズを見返えさない。
俳優が部屋に一人でいる場合、文字通り彼は一人であり、
スタッフの存在は綺麗に消されてしまう。
あるはずのものを認めない視線、
それが「フィクションの視線」である。
特別な意図がない限り、それら二種類の視線が
混在されることはない。
意味の違いによって、互いの世界を
切り崩してしまうからだ。
見返さない視線に見返す視線がまじっていると、
彼(女)は画面内の関係性を袖にして、
メタ・レベルの鑑賞者と姦通している印象を与えてしまう。
逆に、見返す視線の中にある見返さない視線は、
記録行為自体をフィクショナルなものとして
冷笑しているかに見える。
実は、「家族の肖像」にはこの視線の混在が
頻出するのである。
瞬間を捕らえるカメラではなく、瞬間を作り出す
画家によって描かれたためだろう。
視点に対する意識が往々にして寄せ集め的になっている。
各人が別々のことを考え始めた時代、
個人主義の誕生を視線の分裂が密やかに傍証する。

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posted by カズキ at 21:29| 『家族の肖像』 表象論